分岐路の恋


 ・・・・・・眠い。朝の満員電車、各駅停車だからちょっと余裕がある。さっきまで吊り革に掴まってぐらぐらしていたが、前に座っていた人がさっきの駅で降りたのでちょうど座ることができた。膝の上で鞄を抱え、目を閉じる。すぐに睡魔が襲ってきて電車の揺れにあわせて頭ががくがくした。
 ふいに隣の人の肩と肩がぶつかる。横目に見やると、スーツの女の人が文庫本を読んでいた。
 まずい、女性の方に倒れこんだりしたら途中下車の旅間違いなしだ。だが幸運なことに俺の座っているシートは一番端だ。できるだけそちらに身体を寄せて、また目を瞑った。
 ・・・・・・あー、寝てしまう。乗り過ごしたらどうしようか。この電車はどこが終点だったっけ。いっそ知らない、どこか遠くに行ってみたいなあ・・・・・・。
 電車で横向きに座っているとすごく眠くなるのはどうしてだろうか・・・・・・。頭を後ろにつけようとしてのけぞると、背もたれが頭までなく、少し息が苦しくなった。
 電車が強く揺れる。頭が傾いて何かにぶつかってしまった。・・・・・・女の人とは反対だ、よかった。その何かは、指定席のシートみたいにほどよく柔らかくて、心地よかった。安心してそちらに体重を傾ける。目を閉じたまま頭を押し付けていると、ベッドで枕を抱えて寝ている気分になってきた。
 いいや・・・・・・寝ちゃおう・・・・・・。


「・・・ん、んん・・・・・・」
 膝の上の鞄がずり落ちる感覚で目が覚めた。枕もどきに頭を押し付けながら伸びをする。前にはぎゅうぎゅうの人、右隣には目を瞑って本を膝の上にのせた女の人がいるので、必然的に左隣へと手を伸ばした。
 ・・・・・・と、手に何かが触れて、何の気なしに掴んでしまう。
「わっ」
 左から小さな悲鳴が上がり、慌てて自分の手を見る。左手は手すりに、つまり俺の座っている一番端の座席に背中をもたれかけさせて立っていた誰かの腰を、しっかりと掴んでいた。
 首をねじって、俺が腰を掴んでしまっている人が顔を向けた。眼鏡をかけたちょっと日焼けした青年だった。女の子じゃなくてよかった、とか、俺より年下かな、なんて素っ頓狂な考えしか浮かんでこない。青年はしばらく無言で俺を見つめた後、眉をひそめて一言、
「手」
とだけ言った。
「・・・・・・手?」
 阿呆のように復唱して、改めて自分の手を見る。まだ青年の腰を掴んだままだった。
「あっ、わ、悪いっ! じゃなくてっ、ごめんっ!」
 慌てて手を引っ込めて謝ると、思いの外大きな声を出してしまったようで、周りの人が何事かと俺を見だした。・・・・・・まるで痴漢の気分だった。
「・・・いいですよ」
 青年はすぐにまたあちらを向いたので、俺からは表情は窺えなかった。ただぼんやりとその後頭部を見上げると、首筋がちらっと見えた。うんうん・・・・・・俺はホンモノか?
 目線をだんだんと下げれば、薄いシャツの背中がちょうど目の高さにある。あれ・・・・・・もしや。
 少し頭を傾けてみる。・・・ちょうど青年の腰辺りにフィットした。ああ、俺この人の腰に頭くっつけてたんだ・・・・・・、気がつかなかった。
 またじろじろと眺めていると、青年は身じろぎをして横を向いて立ち直した。満員電車の中で肩の高さは一番きついのだが、青年はなんとか隙間を作ってA4くらいの白い紙を見ていた。・・・・・・なんだか真剣そうなのであんまりじろじろ見たら悪いかもしれないな。
 顔を戻そうとした瞬間、青年がこちらを向いた。
 ばっちり目が合ってしまった。・・・・・・気まずい。
「・・・・・・」
 青年が口を開いて、何か言った。
『間もなく――です。――、この列車は急行の待ち合わせは・・・・・・』
 まずい! ここで降りるんだっ。寝ている間に乗り過ごさなくて良かったというか焦るというか!
 俺は青年のこともすっかり忘れ、人波をかきわけてホームへと降り立った。

 数日後、また俺は少し空いている――といっても充分ぎゅうぎゅう――各駅停車の電車に飛び乗った。最近は朝がぎりぎりで死にたくなる急行列車に詰まっていたので、人との間に隙間があるのが感動的だ。座れなくても充分。
 吊り革に掴まって、前に座っている人のつむじを眺めた。その人は鞄を膝の上にのせて、腕を組んで下を向いている。つむじからは髪が綺麗に流れていて、電車が揺れる度にゆらゆらしていた。
 次の駅に止まると、降りる人はまばらなのにたくさんの人が乗り込んできた。・・・・・・無理無理っ!! もう入らないよっ! 俺身体反ってるから!!
 荷物とお身体を引いてください、というアナウンスが何度か響いて、ようやくドアが閉まった。そりゃあこれははみ出るさ。なんてったって俺のあんこがはみ出るくらいだ・・・・・・出る出る!! 圧さないでくれっ! 死んじゃう!
 吊り革を握る手にものすごい力が加わって軽く筋肉痛になりそうだ。揺れる度に吊り革を掴めなかった人々が圧力をかけてくるので、さっきから前に座っている人の膝に足があたっている。何とか隙間を作らないと・・・・・・。
 ・・・うおおお、やめろっ、体重をかけないでくれっ! 倒れる! 前の人に足があたりまくってる!!
 あ! そうだ! 前の人の足の間に足を入れればいいんだ! そうすれば膝があたらないっ。
 ・・・・・・結果から言えば、それはまるで痴漢行為だった。列車が揺れる度に足が動いてしまい、座っている人の足を開かせてしまうし、後ろから体重を預けられると膝が曲がって太ももまたは、何と言うか・・・足の付け根の方に足が入る。その度に俺は冷や汗もので、うつむいたままの頭を確認する。幸い男の子だ・・・セクハラにはならないかな。
 あ・・・・・・、そういえば学生の頃、『身内や同性からでもセクハラです』なんていうフレーズのポスター見たことがあるな・・・・・・。・・・・・・・・・。
 セクハラじゃん! 車内痴漢じゃん! 途中下車とかそういう問題じゃなく新聞に載っちゃうじゃん! 名前も晒されちゃうじゃんっ!
 脳裏に俺のモノクロ写真の載った記事が浮かんだ。いかん。大いにいかん。男性に対するセクハラ行為で逮捕→解雇、なんてもう人として復帰できない! な、何とかしなければ・・・・・・!
 膝の間から何とか足をどかそうと試みるが、スペースがない。さっきまで俺が足を置いていた隙間なんてとっくに埋まっている。うおおぉぉ・・・ちょっと・・・足浮かせてみるか。
「ぅうわっ!」
 突然の急ブレーキ。タイミング悪くちょうど足を浮かせていたせいで、踏ん張りがきかなかった。後ろの人が倒れるようによろめいてきて、まるでドミノ倒しのように俺は倒れた。あまりの圧力に吊り革を掴む手、最後の砦すらも離してしまった。
『停車信号につき、急ブレーキを・・・・・・』
 車内アナウンスなんて、右の耳から左の耳へ風とともに去った。・・・・・・セクハラって、何? お尻に手があたっちゃったとかさ、足の間に膝が入るとかさ、可愛いものじゃん。スキンシップじゃん、それ。
 俺は何がどう働いたのかはわからないが、両手を窓についていた。片足はいつの間にか座席に乗り上げている。・・・・・・うん。
 そして目の前には、驚いた青年の顔。本当目の前、っていうか近すぎだろ! 猥褻じゃん! 足の間に膝ついて、両腕で頭押さえ込んでるこの状況って犯罪以外の何でもないから本当っ!!
「す、すみませんっ!」
 早く立たなきゃっ、・・・ふんっ。ふんふんっ。
 ・・・・・・立てねえっ! 何故どうしてっ! 俺の居場所が見事にない。人一人分のスペースは綺麗に分散され、人々の心に余裕を生み出していた。そして俺は身動きがとれなくなった。
「ほ、本当にすみませ・・・うわわっ!」
 それでも何とか上体くらいは離そうと手をつけ直そうとした瞬間、電車がまた走り出した。思わず青年の肩口に顔をぶつけてしまう。
「あっ、あっ! ご、ごめん本当・・・・・・!」
 青年の両肩を掴んで顔を離し、またわさわさする。だめだ立てない。立てないどころじゃない。明らかに膝が青年の息子さんに圧力をかけている(変態)
「・・・・・・もういいですから」
 いきなり肩を掴まれた。恐る恐る顔を上げると、目を伏せた青年の顔があった。
「・・・え?」
「さっきから悪化してます、あんた。降りるの次の駅でしょ。とりあえず動かないでください」
 じっとしてていいのか? じゃなくて、なんでこの男の子俺が次で降りること知ってるんだろう・・・・・・。
 目の前の顔をまじまじと見つめる。知り合いか? ・・・いや、この眼鏡の子は見覚えが・・・・・・。
「・・・・・・あ! この間の!」
 この間電車で枕にした挙句腰を触るというセクハラ行為をしかけてしまった人だ! 
 ああ・・・、なんて・・・・・・、
「なんてひどい因果・・・・・・」
 呆然と呟くと、青年は口の端を少し上げた。笑ったようだ。・・・笑ってもらえるとすごく助かる。俺もなんとなく笑い返した。
 すると青年は少し、目を細めた。
「あんた・・・・・・」
『――です。お乗換えは・・・・・・』
「うわっ!」
 そうだっ、ここで降りないとっ!
 ちょっと人が降りてできた隙間に入り込んで、無事ホームに降りることができた。安心して息を吐いて、電車を振り返る。またみっしりと詰まってドアに人が張り付いた様相は圧巻だ。
 窓の方を見ると、あの青年がこちらを振り返っていた。目が合ったのでちょっと頭を下げて手を振ると、にっと笑って手を振り返してくれた。
 あ、あんな風に笑うとすっごく人がよさそうだ・・・・・・。
 俺は車内痴漢行為を忘れたかのような爽やかな気分で出社した。

 あー・・・・・・、ありえない。あー・・・・・・、ありえないね。あー・・・・・・気晴らしに車内痴漢でもしてこようか(冗談)
 駅までの道をふらふら歩く。せっかく今日は珍しく早めに帰れるんだ、早く帰らないともったいない・・・・・・。なのに帰ってしまうと何かに負けてしまう気がする。あー、どうしようか。帰りたくて帰りたくない。・・・とりあえず駅へは行こう。今会社の人に会うと破裂しそうだ。
 うわあ・・・・・・、なんだこの微妙な混みようは。この時間帯はビジネスマンより学生の帰宅ラッシュなのか。学生と子連れのお母さんとおじいさんとおばあさんばっかりだ。まれにビジネスマンがひそんでいる。俺もちょうど止まっていた各停の列車にひそんだ。
 まだ外が明るい・・・ちょっとした感動だ。でもこれから毎日のようにこの風景を拝める。感慨も何もかも消え去った。全く嬉しくない。
「はあ・・・・・・」
 鞄を膝の上に抱え上げて目を閉じる。列車が走り始めた。
 ・・・うるさい。学生うるさいな・・・あと子供。
 いつもくたびれたスーツ群とぐったりした学生、遊び疲れた若い子たちばかりの列車で帰っているせいか、なんだか落ち着かない。つまり眠れない。本も新聞も持っていないので暇だ。
 目を開けてなんとなく視線を泳がせていると、斜め前、優先席の前の吊り革に見覚えのある横顔があった。その人は手にA4ほどの紙を持って、じっとそれを眺めている。
「・・・君」
 立ち上がると瞬く間に半ズボンの小学生に席を埋められた。まあなんでもいいやと思いながら青年に歩み寄る。
「・・・・・・あ」
 手元から顔を上げた青年は俺を見て目を丸くしている。俺は間を埋めるために吊り革を握った。
「こんにちは」
 青年は口をむいっとさせて笑った。良かった。これで全く俺のことを覚えていなくて、キャッチ、またはナンパだと思われたら新たな国つ罪を背負うところだった。
「こんにちは。・・・今朝はごめんね」
「いえ、別にいいですよ。満員電車なんてなんでもありですもん」
 今朝のセクハラ行為の罪が洗われたような気がした。いい子だ・・・、この眼鏡の子は今時珍しいいい子だ・・・・・・。
「君は・・・学生さんだよね?」
「あ、はい。さっきの駅より二つ向こうの高校に通ってます」
「えっ、こ、高校生だったんだ!?」
 って俺今すごく失礼なこと言ったよな。まずい・・・。でも青年は笑ってくれた。・・・・・・優しい。
「老け顔ですよね、俺。いっつも仕事してないいい歳の人だと思われますよ」
「ええっ!? 俺はてっきり大学生だと思ってたんだよ! 今時珍しいまじめそうな子だなあと・・・・・・」
「俺全然まじめじゃないですよ」
 いや、礼儀正しいこの言葉遣い、綺麗な黒髪、整った清潔感のある服装、どれをとっても重宝すべきものだ。しかもそれが高校生! スレた汚らしい格好のかもっさいのしか見たことのない俺にとっては、それこそ学生の鑑に見えた。
「それに老け顔とかじゃなくて雰囲気が落ち着いてて大人っぽいっていうか・・・・・・。いやあ、でも、高校生かあ・・・。若いなあ・・・・・・」
 俺とX歳も違うよ・・・・・・。高校時代なんてもうセピア色だなあ。
「あんたはサラリーマン・・・ですよね?」
「え? ああ、そうだよ。さっきの駅の近くの。けっこう有名なところだよ」
 そう・・・この会社に就職できたのは俺の人生で唯一自慢できること、だった。ああ・・・最悪なことが起こったよ・・・。入社当時は希望に満ち溢れていて何も考えていなかった。今はただだまされた感が残っただけだ。
「へえ・・・、会社って、どんな感じなんです?」
 青年がちょっと気にするような素振りを見せた。最近の高校生はもう今から将来のことを考えているのか、うんうん。
「会社はねぇ・・・、やっぱり自分の好きなことをしている会社だったり、共感できる考え方の会社とかに就職したいよね。でないと嫌になっちゃうだろうし・・・って仕事に好きも嫌いもないけど。とりあえず慣れるまでは何らかの支えになるものがほしいからね」
「ふぅん・・・、実際にはどんな仕事をしているんですか?」
「えーと、俺は製作部だから営業の馬鹿とかが立てたプランをちゃんと企画し直して進めていく・・・みたいな」
 ・・・ん? 青年が変な顔をしている・・・・・・。
「営業の・・・馬鹿?」
「えっ、俺馬鹿なんて言った?」
 青年は「うん」とうなずいた。つい癖が・・・・・・。だって営業の奴は本当に馬鹿っていうか手遅れっていうか・・・・・・手遅れ。
「いやあ・・・、うちの会社製作と営業がものすごく仲が悪いっていうか、因縁があって。うちと営業の部長が同期でこれが犬猿の仲、っていうありきたりなきっかけではあるんだけど・・・、それが見事に部下にまで浸透しててねぇ」
「・・・なんか、楽しそうですね」
「いや楽しいとか超越してて・・・。だからチーム組むときなんて大変だよ」
「そうなんですか?」
「うん本当・・・会社って大変なところだよ」
 危うく高校生相手に愚痴りそうだ。ああでも愚痴りたい。特にあの事を・・・・・・。でも希望に溢れる学生さんにこんな現実は見せたくない。
「そういえば君って出身はどこなの? っていきなりだよね、うーん・・・・・・」
「本当は違うんですけど関西・・・ですよ。発音が変でしょ」
「あ、うん。あっ、変っていうか・・・・・・」
 そうそう、さっきからずっと気になっていたんだが、この子の発音がたまにこう・・・なんというか・・・変わっていて・・・うーん。とりあえず関西の人かな? と思っていたから当たりらしい。
「自分では標準語喋ってるつもりなんですけど、つい訛っちゃうみたいで」
 青年は頬をかいて笑った。いやでもなんか・・・・・・、
「可愛いよね」
「・・・・・・え?」
 セークーハーラーっ!! ついうっかり発言してしまったがこれをセクハラと言わずに何をセクハラと言うんだ(朝の行為)
 青年の目が丸くなっている。どうしよう。どう言い訳すればっ。
「・・・くっ、くく」
 そして目の前でふき出した。は、恥ずかしい。
「どうも」
 目に涙すら浮かべて言われた。俺は真っ赤になった。

 いや、折口殺す。今度こそ本気で殴る。憎い・・・・・・営業が憎い!
「守邑くぅん、またなんで変な顔してるの?」
「折口が憎い」
「また折口くぅんと喧嘩したんだ。折口くぅんもそんなに悪い人じゃないよ」
 周りのデスクの人たちがだんだんと立ち上がる。手に定規を握って。
「営業の肩を持つ奴は誰だあああ」
 部長が一声上げる。
「製作の寿田だあああ」
 寿田を囲んだ俺たちが続く。
「や、やめてええええええっ!!」
 皆で寿田を小突きまわしてストレスを発散した。
 あー・・・・・・、なんだか、あの男の子に会いたいな。

 今日もあの子はいるかな。全く嬉しくもなく早く帰れるが、俺は本当に帰ってやる。さっさと電車に乗ってやる。そしてあわよくばあの男の子と歓談してやる。
「よう、変態守邑」
「死ねえぇぇぇ折口いいぃぃっ!!」
 今一番会いたくない男がロッカールームから躍り出てきた。社内だというのにランニングに半ズボンでお前が変態だ。
「お前も帰りか? そんなスーツのままトレーニングなんてできるのかよ」
 む、無視だ。ここは無視だ。俺はトレーニングなどしない。まじめな会社員として寄り道せずにまっすぐ家に帰るんだ。
「ふん、さすが弱小製作の人間は勝負の前に逃げ出す臆病者か。ま、営業をたてるためにせいぜいがんばってくれ」
「折口死ねえええええっ!! 絶対に息の根とめてやるううっ!!」

 いっちにっいっちにっいっちにっいっちにっ・・・・・・・・・。
 ああああああっ!! なんで俺はスーツでランニングしてるんだっ!? 何を折口に踊らされてるんだっ! ワイシャツがはりついて気持ち悪いっ!!
 あーっ、もう何周したんだ俺はっ。しかもこの辺幼稚園あるから幼稚園の周りを何周もする俺って連絡網ものだぞ!?
 ああっ! もうっ! 嫌だっ!!
 ・・・・・・そろそろ帰ろう。俺はがんばりすぎだ。もうすっかり暗くなってるし。
 ということで、一杯やっていこう一人で。会社の人がいたら自害させたくなるのでいつも行かないようなところに行ってみよう。
 上着を脇に抱えて駅の方へふらふらしていると、若者向けの飲み屋が目に付いてきた。・・・・・・カクテルとかはわからないなあ。
 さらにふらついていると趣がまた変わってきた。ちょっ、やめてお兄さんひっぱらないでくれっ! ・・・・・・ああ、健全な俺には目の毒だ、この歓楽街は。
 と奥へ奥へ誘われていると駅に着いた。
 ・・・・・・帰るよ。
「あーっ!」
 ・・・・・・びっくりした。誰だよ、いきなりでかい声出してんの・・・。いいな、ほろ酔い気分のビジネスマンか? ん?
「サラリーマンのお兄さんやあっ!」
 どういう出会いだよ。・・・あー、駅の階段上るのも億劫だ。
「シカトすんなやーっ、ひどいなーっ!」
 ・・・関西弁の大声ってちょっと怖い。しかもこっちに向かって叫んでいるので俺が絡まれてるみたいで居心地が悪い。
「待ちいっ!」
「う、うわあっ!」
 走り寄る足音がすると思ったら、右手首を掴まれて後ろへ引っ張られた。何が起こったのかわからない上に階段に立っていたので落ちるっつーの!!
 頭だけは打ちたくないっ! ・・・・・・?
「・・・・・・ん?」
 いつまでたっても痛くない。恐る恐る目を開けると、
「うわっ!?」
知らない男が目の前でにこにこしていた。
 落ち着いて周りを見れば階段から落ちてはいなかった。バランスを崩した俺を後ろにいたこの人が抱きとめてくれたようだ。
「あっありがとうございます」
「つかまえたで!」
 み、耳元ででかい声を出すなっ! って、え? つかまえた、って・・・・・・。
「呼んどるのにシカトなんてひどいやん」
「えっ、は? あ、え?」
 え? 誰!? 誰だこいつ!? しかもいつまでたっても手ぇ離してくれないし!
「あっ! じゃあ今引っ張ったのお前か!?」
「だってシカトするんやもん」
「意味がわからんっ、はなせっ!」
 なんとか男を振り払って体勢を立て直し、改めて目の前の男を見る。
 ・・・・・・本当にわからん。
 頭は明るい茶色でサングラスをかけていて派手なシャツにごついアクセサリー・・・・・・、本当に思い出せない。というか知らない、こんな見るからに怪しい男。
「誰だお前」
 心の底からの疑問を口にすると、男は眉間に皺を寄せて子供のように唇をとがらせた。
「ひでぇのお。あんなコトしといて他人のフリやなんて・・・俺のコト、遊びやったんやな!」 
と言って、両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。
 疲れきった心を癒すため銀河鉄道に乗り込むビジネスマンたちが集まってくる階段に突っ立っているだけで目立つ。それがどっちも男で、でかい声で修羅場ってたらさらに目立つ。すれ違うおじさんがぬるい目で俺を見ていた。
「泣くなっ!」
 うつむいている頭をわし掴むとさらにでかい声で泣き始めた。おーっ、なんなんだ一体! 飴も何も持ってないぞ、どうすれば泣き止むんだっ。
 ・・・・・・と、落ち着け。こいつは本当に泣いているわけではなく泣きまねをしているだけだ。どうすればこの騒々しい泣きまねを止めてくれるんだよっ!
「泣き止めよっ、本当に! 周りの人が見てるぞっ!」
 そう言うと男はいきなり顔を上げて、
「ちゅーしてくれたら黙る」
と自分の口を指差した。
「は?」
「だからちゅー」
 は? っておいなんで肩を掴むんだ? でもってどうして唇をつき出すんだっ?
「はなせっ! お前おかしいぞって、くさっ! 酒くさっ! お前酔ってるなっ!?」
「酔ってへんわ。俺はシラフやから、早ぅちゅーせぇ」
「そんな酒臭い息で酔ってないわけあるかっ! 絶対に人違いだっ、お前酔ってるから俺のこと誰かと間違えてるんだろっ!」
「だから間違ってもないてっ! 手ぇ邪魔や、どかせ」
 おおおおおっ!? なんだか本当に何かの危機を感じるぞっ! ここで抵抗をやめたら大切な何かを喪失しそうだっ。
「本当にお前なんて知らんっ!」
 決死の思いでなんとか男を振りほどいた。二段も三段も抜かして階段を駆け上がると、
「サラリーマンさんのあほ――――っ!!」
 更けゆく街中に響き渡る大絶叫が後ろから聞こえた・・・・・・。

 あー・・・・・・。なんだったんだあれは・・・・・・。怖い・・・・・・。
 本当に俺はあんな男は知らない。忘れているという可能性も、キスをせまられるような関係の知人がいない時点でないだろう。あー怖い。
 だいたい「サラリーマンさん」ってなんだ? 不特定多数のサラリーマンに何か恨みでもあるのか?
 ・・・・・・考えても無駄か。とりあえず明日からは明るいうちに帰ろう、うん。
 そうすればあの男の子にまた会えるかもしれないし。

「今日も一日営業を憎み仕事に勤しむぞっ!」
「はい! 私たちは今日も営業を憎しみます!」
 はー・・・、今日も一日デスクワークが始まった・・・。昨日の変質者のことでまだ心が晴れないし、今朝はあの男の子に会わなかったし。やる気出ないなー・・・・・・。
「守邑くぅ〜ん、おはよ〜う」
 いつも通り朝礼に遅れた寿田が部長の空手チョップをくらって俺の隣に座った。挨拶を返す元気もない。
「あ〜そうそう、さっきねぇ」
 そんな俺を気にする様子もなく、寿田はノートパソコンを開きながら話しかけてくる。
「営業の人に聞いたんだけどねぇ」
 ・・・・・・あーあ、朝からよくもまあ。
 部長が肩を回しながら腰を上げ、続いて全員が立ち上がった。
「守邑くぅん、昨日駅でカマ掘られたんだって〜?」
 寿田は周囲の様子にも気付かず、俺に向かって話し今なんて言った?
「寿田今なんて言った?」
 立ち上がった製作の戦士たちはその場で固まっていた。俺はわけがわからないまま、少しだけ泣きたくなった。
「ええ? だから〜、守邑くぅんがカマを」
「やめろーっ!!」
 寿田をはっ倒した。
「も、守邑・・・・・・」
 部長が視線を微妙にずらして震える手を俺に差し出してきた。
「・・・げ、元気を出せ。人間・・・・・・大切なことはたくさんあるんだ」
 部長は俺の手を握った。
 そして寿田を戒めに来たはずの猛者たちが、順々に俺と握手をしていく・・・・・・何故!?
「ちょっ、ちょっと待ってください! な、なんだその不名誉な偽りはっ! 寿田っ! 誰に聞いたんだっ、折口かっ? 折口なのかっ!?」
「今なんで殴ったのぉ、守邑く・・・」
「殺すぞ! どこで仕入れたんだそのガセネタっ!」
 床に転がっている寿田のネクタイを掴んで揺さぶる。何か悪いことがあったなんて知らないような顔で笑っている寿田が悪鬼に見えた。
「え〜と・・・、営業の、確か豊入さん・・・」
「豊入だとっ!? よしっ、俺がちょっと息の根止めてきてやるっ」
 豊入さんを心底憎む先輩の秋津さんが獲物を手に製作を出ようとした。だが、
「だばふっ!」
ドアに辿り着くと同時に勢いよく扉が開いた。秋津さんは顔面に直撃を受けて、とても切なそうだ。
「し、死ねええええええええっ!!」
 会社中に響く大合唱がおこった。そう、扉の向こうにはありえない光景があったのだ。
 秋津さんの顔を平たくしたドアの向こうには、憎き営業の面々が雁首を揃えていた・・・・・・。
「何の用だコノヤローっ、神の国製作に乗り込んでくるとは蒙古かっ、蒙古襲来なのかっ!!」
「黄泉の国が何ほざいてやがる。俺たち営業は黄泉比良坂に立ついわば伊邪那岐命よ。この黄泉軍どもがっ」
 製作部長vs営業部長の熱いバトルが勃発した。実はこの二人、学生時代からの腐れ縁らしい。一体この二人の間に何が・・・・・・げろっ。
 と、とりあえず、がんばれ部長! 負けるな大将っ!
「豊入・・・・・・お前かあっ! 我が弟たちをたぶらかしたのはっ!」
 扉の陰に潜んでいた秋津さんが踊り出た。豊入さんを発見して掴みかかる! ボタンがとぶ! ワイシャツが裂けるっ! ・・・ってどこの北斗神拳だよ!?
「取っ組み合いはやめろ! 暴力はいかん!」
「全く・・・これだから原始人製作は・・・・・・」
 部長同士が掴み合う! 視線が絡まる! きっちりと着込んだスーツが乱れ胸元が露に・・・うおおおっ、やめろっ、俺の豊かな妄想力っ!
「ちっ・・・・・・、とりあえず、何の用だ」
 乱れた髪とスーツを整えながら部長が尋ねる。それは製作部全員の疑問だった。普段は絶対に相手のホームグラウンドに来たりはしないはずなのに・・・・・・。
「そうだ。お前と程度の低い争いをしている場合じゃなかったな。・・・・・・折口」 
 思わず歯をむき出しにする。営業の腐海から湧き出した折口が、神妙な顔で俺に何かを差し出してきた。濃い緑の風呂敷に包まれた四角い箱だ。しかし何故俺に・・・・・・?
 部長を窺う。うなずいた。
 俺は慎重に蓋を開けた。
「・・・・・・・・・?」
 ほかほかの・・・・・・お赤飯。
「製作の守邑くん! ヴァージン卒業おめでとう!!」
 営業のガキ大将たちは満面の笑みで叫び、大笑いしながら走り去っていった。
「・・・・・・・・・」
 ・・・・・・・・・。
「も、守邑・・・・・・?」
 ・・・・・・・・・お。
「お」
「・・・・・・なんだ?」
 お、おおお、おおおおお。
「おぎゃああああああああっ!! げ、げぼおおおおおおごごごっ!!」
 泣き叫んだ。生まれて初めて胎内回帰願望というものが芽生えた。俺は生まれる前からやり直していいだろうか? そして前世で折口の祖先(男)を男性と強制結合させてもいいだろうか・・・・・・げぼっ。
「うわっ、守邑が吐きそうだっ! 誰がトイレに連れていってやれ!」
 優しい誰かが肩を貸してくれて、トイレの芳香と微妙な温かさに触発され、俺は全てを解き放った・・・・・・(汚)

「守邑、原因をつきとめたぞ」
 デスクでお赤飯から小豆を取り出して仕分けしていると、秋津さんがげんなりした顔でそう言ってきた。俺は瞬きも忘れていたようで、目を瞑ると涙が出た。それは乾いた瞳と心を潤し、鼻の方へ下りていった。
「お前がその・・・な、という噂はどうやら別の課から発生したらしいぞ」
「えっ!? べ、別の課の人が俺がバキューンだって!?」
「いや、そこのところは営業で大きな時空の歪みが生じたらしい。元の噂は昨日お前が駅で男にせまられていた、ってやつらしいな」
「え? 昨日・・・? あ、ああー・・・・・・」
 そんなこと、さっきの悪夢の衝撃によって忘れてたわ・・・・・・。うん、あったあった、そんなことが。昨日という、遠く置いてきた過去に。
「その噂は事実なのか」
「いや、事実というかなんと言うか・・・・・・。人違いの酔っ払いに絡まれただけです」
「そうかあ・・・。まあ、良かったな。純潔を守れて」
 いじめ? え? いじめ? 今の。え?
「ねぇねぇ守邑くぅん」
「なんだヘンタイ寿田」
 鼻にポッキーをつっこんだ写真を会社紹介のホームページにアップすることで許されたハレンチ寿田が、頬に湿布を貼った間抜け面で話しかけてきた。・・・前歯欠けさせようかな・・・・・・。
「僕さっきから気になってたんだけど、カマを掘られるってどういう意味なのぉ?」
「総入れ歯?」
「カマってさぁ、まぐろとかのあごだよねぇ? それを掘るってぇ〜・・・、どんなことされたのぉ。守邑くぅん」
 俺は数時間ぶりに朗らかに笑った。次は口にばななショットな、寿田。お・ま・え・が・ほ・ら・れ・ろ。

 ・・・・・・なんだかすごくあの男の子に会いたい。今日も早く帰らされるが、トレーニングをしていく気なんて微塵も起きない。またあの変な奴に遭遇したら怖いし。
 ホームに立って、止まっていく電車をチェックする。見逃している部分も多いが気合で見つけてやる!
 小一時間ほど経って、その時は来た。いつまでもホームをうろついては車内をのぞきこんでいる俺を車掌さんがマークし始めていることには気付いていた。捕まるか見つけるか、どきまぎしているとようやく目当ての電車がホームに滑り込んできた。
 俺の立っている目の前に、あの子の乗っている車両が止まった。思わず頬が緩む。吊り革に掴まっていた男の子がふいに顔を上げたので、俺は笑って片手をあげた。
「・・・・・・あ?」
 俺と目が合った瞬間、男の子は顔を背けてしまった。その横顔は不機嫌そうで、もうこちらを向いてくれない。
 あげた手もそのままに動けないでいると、ドアが閉まって列車は走り出してしまった。
 俺は走った。走りに走った。走り続けてアパートまで辿り着いた。という夢を途中で挫折して乗った電車の中で見た。




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