分岐路の恋-2


 あー・・・・・・、なんだかとても憂鬱だ・・・・・・。
 というか何もやる気が起きない。それでも朝はやってきて、無慈悲にも会社は始まっていく。
 昨晩は何故か寝付けなくて、練乳のチューブに練りわさびを詰めなおすことに精を出した。コーヒーには必ず練乳を入れる頭のおかしい寿田のデスクにプレゼントしてやろう。
 ・・・なんてくだらないことをしていたせいでアパートを出るのが遅れた。もういっそ死にたいくらいだが急行に乗るか・・・・・・。
 ホームは急行電車に乗る人の列であふれていた。俺も列の一番後ろに並ぶと、すぐに電車がやってきた。
 もうぱんぱんの列車に押し込まれ、俺はドアにはりつく。・・・まあドアにはりつけただけいいか。誰かと誰かの間にはさまって手すりにも吊革にも掴まることができないと重力との戦いになってしまう。
 電車が走り出した途端、後ろからものすごい圧力をかけられる。鞄の中のチューブが爆発してファイルがわさびまみれになったらどうしようか。
 しかし手を全く動かせないほどぎゅうぎゅうなので網棚の上に鞄を乗せることもできない。仕方がないので鞄のことはひとまず忘れることにして、ドアに胸がぺったりつくように体重をあずけた。
 あー・・・・・・急行はやっぱり速いけれど全然止まらないので乗り降りがなくいつまでも息もつけないほど窮屈だ。
 それに・・・なんかさっきから・・・・・・。
「う・・・ぐぐぅ」
 肺が圧迫されるのと、もう一つ変な違和感がある。絞り出すようなうめき声が歯の隙間から漏れた。
 なんと言うかまあ・・・誰か俺の尻触ってないか?
 いや、有り得ない。有り得ないよ・・・どこの世界にくたびれたサラリーマンの尻を触って元気が出る人間がいるんだ。さっき乗り込む時に周りに女性がいないことは確認した。でないと俺が痴漢になってしまう可能性もあるからな。
 ・・・だから痴漢対象を誤ったわけでも、物好きな女性の犯行というわけでもないはずだが・・・ちょちょちょちょっと待て。待て待て待て待て。おいおいおいおいっ?
 さっきまではまだ誰かの手が腰辺りに当たっているかもなあー・・・くらいだったのに、今のは完璧にちょっと・・・・・・。
 腰下をさするようだった手が滑り下りて、腿の上・・・というかもう本当股の間を撫で始めたっていうか局部じゃん! 完璧なセクハラじゃんっ!?
「うぅぎぎ・・・」
 ぐごぼおおっ、もう手の甲に息子当たってるだろおっ、こんな立派なブツの持ち主が女性なわけないだろうにっ! いい加減手ぇ離せよっ! うわっ・・・ま、まじやめ・・・っ、ちょっ、そこはまずいっ! それはいけないだろうっ!
 捕まえてやろうにも手を動かせない、振り向いてにらみつけてやることもできない。執拗に変なところを撫でる手から逃れようと身をよじると、
「つっ・・・・・・!」
 掴まれた。腕を? いいやいや。何を? ・・・・・・ナニを。
 冷汗が背中を伝うのがわかった。こう暑い時季だが車内はクーラーが効いていて直接その風が当たるので暑くはない。・・・・・・なのに。
 誰かと密着した背中がだんだんと汗ばむ。意識が向いてしまう指はまだ俺を握ったままだ。・・・そこを掴まれると弱い。本能的な恐怖が勝って体が固まってしまう。
「っ!」
 じっとしていると、突然その指が掴んだままのモノをこすり始めた。親指の腹で乱暴にこすられる。下着の布が痛い。自然と中腰になってしまう・・・。
 というかついに真の痴漢行為に触れた。なんだこれは昨今の俺に対する反面教師か。
 ・・・うおっ、い、いかんだろそれはっ! や、やめ・・・うあ・・・・・・。
 これ以上はだめだ。これ以上はまずい。上級者コースだ。これ以上我慢していたら忍耐が美徳の日本人の数ある大切なもののうちの重要な一つを喪失する。それだけは避けたい。
 俺は勇気を出して首を捻じ曲げ、でかい声を出そうとした。男が男に痴漢されたことを恥ずかしがる乙女心? ねえよっ! っていうかそんな気高いプライド持ち合わせてたら体張って頑張る日本のビジネスマンやっていられねえよっ(語弊)
「ちょ、っ!?」
 母音が少し言えたかな、というところで息が詰まった。強く握られたのだ。手を? いやいいや。ナ・ニ・を・だ・よっ!
「黙って」
 耳のすぐそばで、そんな声がした。
 小さくて囁くような声は、本当に耳のすぐ近くで、息遣いすら感じられる。・・・おい、どうしたんだ俺。NOが言えない日本人なのか? 俺は。
 下腹部の過ちは急速におさまり、不穏な場所を掴んでいた手も離れ、いつも通りの俺のようだった。
 駅に着いた。真っ先に電車から排出される。降りる人は押し合いへし合い流れ出てくるので、俺のそばに立っていたのは誰か、なんてわからなかった。
 特に痴漢を探すこともなく改札を出る。
 ・・・・・・会社へ行っても、ずっと鼓動が異常だった。


 何日か経った。俺はいつも通り各駅列車に乗り、会社でもいつも通りだった。寿田が食事に中った以外はいたって普通の毎日だった。
 俺は今日も営業を憎み、一日の仕事を終えた。
 最近はまじめにトレーニングをしていたが今日はさっさと帰ってしまおう。・・・全然あの男の子にも会わないし。
 若者の多い駅で電車を待ち、一番端の車両に乗ってきょろきょろしながら進んだ。
 いくつかの車両を過ぎると、本当に久しぶりにあの男の子が立っているのを見つけた。やっぱり、特定の時間の電車に乗っているようだ。
 ストーカー? いやいや。何かって? 執念(ストーカー)
「こ・・・・・・」
 声をかけようとして思いとどまった。そういえばこの間見かけたときは拒絶されたような気がする。今この密閉された空間で無視なんてされてみろ。心が折れる。
 ・・・勝負に出るか? 人は勇者になれるか? 俺はロトの血をひいているか? そして伝説へ。
 車両同士の結合部分に立っていると大層揺れた。軽やかなステップで車両に飛び移ると足首がひねくれた。天の邪鬼だなあ、俺の足首は・・・ってひねった! めちゃくちゃ痛えっ!
「はぽっう」
 貧相な悲鳴が喉から絞り出る。痛む足をさすりながら顔を上げると、いつの間にかあの男の子が見下ろしていた。目が合う。
「こんにちは」
 目を細めて口をむにっとさせた。
 うわああい、この間知らんぷりされたと思ったのは気のせいだったようだ。俺は足の痛みも忘れたかのように振る舞い、男の子の隣に立った。
「久しぶりですね」
 やっぱりあれは俺の勘違いだ。男の子は隣でにこにこしているじゃないか。
「ああ、最近帰りにトレーニングしてるから遅くなったんだ」
 本来ならその時間も会社で仕事してるはずなのになあ。ははは、嬉しくないやら嬉しくないやら。嬉しくない。
「トレーニング?」
 あ、ああ・・・・・・。そういえば彼には話してなかったのか、あの悪夢のような催しを。希望にあふれる若い社員を痛めつける黒ミサ・・・・・・。
「それがさあ・・・」
 愚痴にならないように気をつけながら、俺はぐちぐちと語りだした・・・はっ!


 ある日会社にて。
「わーい、部長わーい。おはようございわーい」
「荒れてるな守邑・・・・・・。さては朝からボス戦だったか」
「おぼおおおっ! あ、あんな奴ザコですよザコ! 初めてフィールドに出て遭遇するような青スライムですよ折口なんてっ!」
 ・・・でもそういうのこそ手こずるんだよな。だいたい初期装備棒って・・・なんの話だよっ!?
「俺は棒で折口を殺せます」
「なんの話だっ!? ・・・あー、守邑、とりあえず話は変わるんだが」
 なんだろう・・・こんな早々にルーラ、なんてことはないよな。
「お前若いよな」
「そりゃあ・・・まあ(部長よりは・・・)」
「野球は好きか?(守邑殺人事件)」
「いいえ、全く」
「野球のルールは知ってるか?」
「高校時代に体育でやったような・・・あ、あれはソフトボールだ」
「ビンゴーっ! ひゅーっ」


「ということで俺は社内各課対抗野球大会製作チームに参加させられることになった・・・・・・」
「んぇ? あ、え? い、今の話のどこにそんな?」
 わからないか・・・。俺もわかんねえもん。結局若さしか買ってないだろ!
「無理だよねえ・・・・・・。ルールもよく知らないし」
 トレーニングなんていっても毎日走り込みとか素振りしかしてないし、肝心なことができていない気がする。
「あ、じゃあ俺教えましょうか?  一応ルールわかるし」
 わあい。なんて優しいんだ。本当にこの子と話してると気持ちが安らかになる・・・・・・。
「あー・・・、じゃあ、ちょっとだけ教えて?」
 こんな歳なら野球のルールくらい知らないとおかしいだろうか? こんな若い子が知ってるんだもんなあ、うんうん。
 それから俺は野球の基本ルールを聞いた。やっぱり高校の少人数でやるソフトボールとは結構違うんだな。
 そして! さらに! なんと! この男の子は明日会社が終わったらトレーニングに付き合ってくれると言う! 待ち合わせ場所は俺の会社のある駅だ。やったね、明日は折口の首をホームランだ!


 ・・・ふー、今日の仕事はなんだか楽しい。学生時代の土曜日の授業のようだ。あとに楽しいことがあると俄然やる気が出るな。
「守邑くん楽しそうだねえ〜」
 ・・・そういえば。
「なあ、寿田は野球大会出ないのか?」
「ええ〜? うん、出ないよ〜。なんか部長に寿田は寿田のままでいてくれって言われたんだあ。僕野球好きなんだけど〜」
 なるほど・・・・・・。たとえどんなであっても寿田は寿田か。
「それじゃあチームはどんなかんじなんだ? やっぱり若い順に九人か?」
「ええ〜、違うと思うよぉ。だってぇ〜、部長や秋津さんも出てるもん〜」
「ええっ!? や、やっぱり部長出るのか・・・・・・。いや、頼もしいが。そうなるとどうして俺とか、まちまちに抜擢されて・・・はっ!」
 え、営業だ・・・・・・! 営業チームに対する殺傷力で選ばれたんだ俺は! そうか・・・、そうなのか!
 よしっ、さらにやる気が出てきたぞっ! 今日は早速あの子と練習して見違えるように強くなってやるぜ! ・・・ってそういえば。
 あの男の子の名前、知らないや・・・・・・。
 はっ! 俺も名乗ってねえ! そうだなあ、今さらのような気もするが、今日自己紹介でもするか。
 それじゃあ仕事が終わったらバットとグローブとボールと名刺持って行くか!
「ユニフォームイズスーツうぅぅぅぅぅっ!!」
 はっ、脳内フィーバーしてでかい声を出してしまった。皆目を丸くして俺を見ている。まるで檻の中の珍獣の気分☆(そのもの)
「イエス! We are soldier in suit of factory!」
 ええっ! このノリに部長が続いちゃった!  っていうかfactoryって微妙に製作部と違うんじゃ・・・・・・!
「うおおおおおおおっ! 我ら輝く製作の戦士っ!」
 たとえどんな苦難も乗り越えて!?
 製作は今日も平和です。


 さーてと、今日も早く帰れたぞ。今回はちょっと嬉しい。こうやって誰かと練習していればもっと効率よかったかな。
 あれ? そういえば製作チームって当然俺以外にもいるよな? なのに俺だけ早く帰ってトレーニングしてないか?
 ・・・いじめか? 期待か? まあどっちにしろいじめか。そうかい。
 ん、そろそろ待ち合わせの時間だ。どきどきしすぎて早く来ちゃった☆ きもいね。
「サラリーマンさーんっ!」
 えっ?
「・・・はーっ、すいません、遅れましたっ!」
 ・・・・・・は?
「あのー、それじゃあどこに行きますか? 俺、良さそうな公園知ってますけど」
 あーっと。
「・・・サラリーマンさん? 聞いてます?」
「・・・・・・お前誰?」
「・・・・・・・・・え?」
 ・・・・・・こいつ誰だ? あの男の子のような口ぶりだが見た目が違う。まず茶髪だ。あの子は黒髪だった。次にグラサンだ。あの子は眼鏡だった。そしてアロハだ。あの子は白かった。
 っていうかあいつだ。いつかのセクハラ酔っ払い。さてこれらのヒントから導き出さ
「同一人物だよっ!」
 驚きのあまり受け身を取りつつ地面に倒れた。
「あー・・・、もしかして、気づいてなかった、とか?」
 男の子・・・ではなく男が顔をひきつらせて見下ろしている。俺はもうどちらかというととびかかって噛みつきたい気分だった。
「・・・当たり前だろっ! 詐欺だっ! うわああああっ出せっ! あの男の子を出せっ!」
 ぶおおおおおおっ、もう人としての尊厳も失いだしたぞっ!?
「くっ、くくく・・・あはははははっ!」
 大笑い始めちゃったよ! 俺も笑いてぇよ! 笑って全てを忘れたいよっ!
「ほんっまに気づいてなかったん? あはははははっ!」
「笑うなっ! だいたいっ、気づくわけないだろっ! 全っ然違うじゃないか!」
「そうかなぁ。そないに違わんと思うけど」
 いや、明らかに別人だ。整形? 多重人格? 赤の他人? ・・・趣旨がずれてきた。
「第一、 あの男の子はまじめだった!」
「俺不まじめやって言ったやん」
 ・・・そうだっけ? いやいや。・・・・・・いやいやいや。
「とっくに気づいてると思っとったけど。あ、そや、ちょっと前まで俺のこと避けてたやろ?」
「は? 避けてたのは君・・・っていうかお前だろ。俺が手振っても無視だったし」
「はあ? 無視なんて・・・あ、あー・・・・・・。・・・・・・うん、してない」
「どっちだよ!?」
 ・・・うーん、なんだか意志のすれ違いがあったようだな。
「てっきり、酔った勢いでせまったのを根に持ってるもんと・・・・・・」
 ・・・やっぱり酔ってたんじゃねえか。まあ百も承知だったし、シラフであれは有り得ないしな。
「ってお前高校生だろっ! 二十歳未満は飲酒禁止!」
「えー、飲酒だめやったらアダルトな方は解禁?」
 シラフでこれだったー!! っておいおい! 未だに転がってる俺にまたがらないっ! 動転のあまり周りを見ていなかったがここは駅だ! 夕方の駅だ! ああっ違うんだ誤解なんだっ、露骨に避けて通らないでくれ! ってレールウェイポリスが出るか出まいかフェイントをかけ出しているっ!
「阿呆っ! 早くどけっ!」
「えぇー、サラリーマンさんが遊んでくれるんなら」
 えぇー、遊ぶって何をおおおぉぉ。ネクタイをほどかないでえええぇぇぇぇ!!
「何でもいいからさっさとどけ!」
 男がしぶしぶどいたのでようやく立ち上がることができた。そして俺の節操に関する信用は無事立ち上がることができるのか。
 頑張ればできないことはないはずだ。
「ちゃんとどいたんやからご褒美に遊んでな」
「・・・あー、じゃあ良い公園とやらに連れてってくれ」
 くそう・・・、こうなったらみっちり練習に付き合わせてやろうじゃないか。これで泣き寝入りしたら男がすたるぜっ!
「いきなり公衆トイレプレイとはやっぱり都会のサラリーマンさんは違うんやなあ」
「・・・・・・私、帰る」
「あっ、冗談! 冗談やからっ!」
 いや本当・・・・・・男相手に身の危険を感じるのは何故だ? 接待や重要な会議の時以上にスーツを乱してはいけないと思ったのはたぶんこれが初めてだ。
「そんなら、こっちでーす。ついてきてください」
 さりげなく地面に散乱していた俺の鞄やバットを拾ってくれた。
 ・・・うーん、良い奴なのか悪い奴なのか。







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