会議B


「えーすけくーん、牛乳あげるー」
「プリンもよこせ」
「えー、だめだよー。・・・あ、食べた! ひどいー!」

 あんなこともあった。今となっては懐かしい思い出だ。今なら少しひどいことをしたとも思う。謝ったっていい。そして俺のプリンを食べる(吸う)スピードはすごい。
 だがこれは何だ。今のこの状態は何だ。俺の持った箸の先に田倉社長がくっついている。無表情のまま咀嚼している。そしてだんだんと割り箸を飲み込み、俺の指まで迫ってきた。
 空恐ろしくなって割り箸を引っ張ると田倉社長は静かに離れていった。
 他社との合同会議、昼食の時間。わりと豪華な弁当が出て、いざ食べようとから揚げをとるとそれに社長が食いついてきた。ノリがつかめない。
 そしてこの割り箸はどうしたら良いのだろうか。田倉社長の酵素が付着している。当然割り箸は一人に一本しかない。ちらりと隣に座っている先輩を窺うと、慌てたように割り箸を舐め始めた。まるで棒についた蟻を舐める類人猿のようだった。
 どうしようもなくなって社長を見ると、俺を凝視したまま弁当を空けもしていない。蓋の上には未使用の割り箸がのっている。
 俺はそれがどうしようもなく欲しくなった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
 だから俺は手をのばした。視線はあえて向かいの机に座る柔和な中年男性の眼鏡のフレームに据える。極力肩から上を動かさないよう注意し、斜め前の社長の割り箸を探った。周囲が食事の手を止めて俺の指の行き先を見つめていた。やめろ、見るな。少しでも不審な動きがあれば社長に気付かれる。
 指が何かに触れた。割り箸か・・・・・・? いや、それにしては太い。それに硬いようですべすべしている気がする。何だこれは・・・ん、掴めるぞ。
 はっとした。向かいに座る中年男性の表情が変わったのだ。それまで幸せそうにさといもを頬張っていたそのレンズ越しの瞳が、だんだんと驚愕に見開かれていく。
 俺は素早く視線をずらし、密偵の左手を確認した。それは机の上で組まれていた社長の指をしっかりと掴んでいた。
 恐怖のあまり、俺の左手は動くのをやめてしまった。向かいの中年男性を必死に見つめる。滲む汗で眼鏡がずり落ちているが、彼はそれを直そうともしなかった。彼もまた、俺と同じ恐怖を味わっているのだ。
 ふと手に違和感を覚えた。左手を見る。思い出したように弁当の包みを開けようとしている社長が、俺の左手に気付いた。俺から視線を逸らさずに俺の左手を探った社長は、ふいに俺の手を掴み、
「ああ・・・・・・パンか・・・・・・」
と呟いた。俺は咀嚼された。
 心は無垢だった。

 翌日、俺は初めて会社を無断で休んだ。
 海が、見たかったのだ。





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